[ 蒲原 夜之雪 ]
雪が積もる家並みの前を、傘を差し杖をつく旅人は京都方面へ、編み笠をかぶり蓑を付けた旅人は江戸方面へ、どちらも雪面に足跡を残しながら歩いています。
旅人が歩く街道は坂道なので、足元に目を向けながら慎重に足を運んでいるようです。
[ 蒲原 東木戸(2021 07 24) ]
[蒲原
夜之雪]の屋根に積もる雪や歩く人の編み笠や蓑に付いている雪を見ると、大雪の日を想像して描かれた絵と思われますが、現在の蒲原は雪が積もるような地域ではありません。
静岡地方気象台の資料によると、静岡市の年平均気温は過去100年で2.4℃上昇しているので、単純に計算すれば広重の東海道五十三次が出された1830年代は現在よりも4.5℃ほど低かったことになります。
蒲原は温暖な地と言われますが、江戸時代は大雪の日がなかったとは言い切れません。
1699年の高潮により移転した蒲原宿は山裾に沿って広がり、[蒲原
夜之雪]のように両側に山が見えるところも急な坂道もないので、雪、構図ともに広重の創作かもしれません。
[ 蒲原 本陣前(2021 07 24) ]
JR東海道線には蒲原駅と新蒲原駅がありますが蒲原宿に近いのは新蒲原駅で、蒲原駅は蒲原宿より西へ約2kmも離れたところにあります。
東海道線が敷設される際に近隣町村による駅の誘致合戦があり、その結果1889年の開通時に蒲原駅は設けられず、蒲原宿に近いところでは興津駅と富士川駅が誕生しました。
翌年の1890年に蒲原駅が誕生しましたが、駅間距離を考慮して宿場から約2kmも西へ離れたところに置かれたのです。
--興津駅------------9.4km-------------蒲原駅--------------5.2km--------------富士川(旧・岩淵)駅--
1889年 1890年 1889年
その後、1916年に由比駅が造られ、蒲原宿の近くに新蒲原駅が開設されたのは1968年になってからでした。
--興津駅---5.9km---由比駅---3.5km---蒲原駅---2.4km---新蒲原駅---2.8km---富士川(旧・岩淵)駅--
1889年 1916年 1890年 1968年 1889年
海沿いの人口が多くない地域にもかかわらず、富士川駅から由比駅の平均駅間距離は3km弱しかありません。
[ 蒲原 イルカ スマシ(2021 07 24) ]
蒲原宿周辺で「イルカ スマシ」と書かれた看板が魚屋に掲げられいるのを見かけます。
イルカスマシとはイルカのひれを薄く切って茹でて塩もみした珍味で、ゴムのように弾力のある食感だそうです。
駿河湾は桜エビが名物としてテレビなどで取り上げられていますが、歩いていると思わぬ珍味を見かけます。
残念ながら「イルカ スマシ」の看板を初めて見たときは、食べ物とは思えない名前のため、見ることすらしませんでした。
[ 由井 薩埵嶺 ]
薩埵峠の切り立った崖沿いを江戸方面へ向かって歩く一行の先には、駿河湾越しに真っ白な富士山が聳えたっています。
富士山の右側には、風に逆らう形で崖地に生えている松と穏やかな海面に白い帆を張った四艘の船が描かれています。
[ 由比 薩埵峠(2021 09 18) ]
旧・東海道が薩埵峠を越えるところは、ハイキングコースのような細い道で車は通ることはできません。
[由井 薩埵嶺]の構図が見られるところには、小さな展望台が設けられ全体を見渡すことができます。
東側を望むと、左手には勾配が45度はありそうな急斜面が広がり、海岸沿いの狭い平地にはJR東海道線、国道1号、東名高速道路が並行して走っています。
東海道新幹線はトンネルで、第二東名高速道路はさらに山側を通っていますが、日本の東西を結ぶ大動脈が薩埵峠の脇を通っていることに変わりはありません。
東海地震や台風・豪雨によって急斜面が崩落し大動脈を損壊することがないように、地滑りを抑制するための杭や地下水位を下げる対策工事が進められていました。
[ 由比 みかん畑とモノレール(2021 09 18) ]
由比宿から薩埵峠へ来るまでの斜面はみかん畑になっているところもありますが、急斜面でみかんをもぎ採って運ぶのは、危険かつ大変な重労働です。
さすがに人力だけでは厳しい作業なので、みかんを運ぶためのモノレールが設けられていますが、明らかに使用されていないものも見受けられました。
薩埵峠がある静岡県はみかんの出荷量が全国3位(2021年)ですが、全国のみかん収穫量は1970年代後半の350~360万トンをピークに減少し、2010年以降は100万トンを割り続け、2020年は70万トン台にまで落ち込んでいます。
農林水産省の統計によると、結果樹面積(収穫を意図して結果させた面積)が年々減少しているのは「高齢化による労力不足に伴う廃園があったこと等による。」とあります。
国産みかんが高嶺の花になるのも、やむを得ないようです。
[ 興津 興津川 ]
興津川を渡る力士が二人、一人は4人が担ぐ駕籠に乗り、もう一人は馬の背に乗って川を越えようとしています。
背景には興津川の砂嘴に生えている松の木とその沖に白い帆を張る船が浮かんでいます。
[ 興津 興津川と東海道線(2021 09 18)]
険しい薩埵峠を下るとすぐに興津川の川越えになります。
富士川や安倍川に比べれば川幅200mほどの小振りな川ですが、川を越えるには蓮台または人足の肩車で渡らなければなりませんでした。
現地の案内板に天和3年(1683年)の川越えの料金が掲示されていました。
料金は水深によって変わり、最も安い水深42㎝までが12文、150cmまでが42文で、これを超えると「川止め」となり旅人は足止めを食らうことになります。
蓮台の場合はこの4倍。当時はそば一杯が16文なので、現在のかけそば一杯400円とすれば12文=300円、42文=1050円となり、意外と良心的な料金に思えます。
現在の興津川は両側に堤防があり、川の中は雑草が生い茂り、渡しの場所から河口を見ても今はJR東海道線や国道1号の橋が架かっているので、海を見ることはできません。
見えたとしても、右岸側から伸びていた砂嘴は現在は左岸側から伸びているので、全く違った光景です。
[ 興津 広げられ国道1号になった旧・東海道(2021 09 18)]
興津宿は海岸沿いの狭い平地にあり、旧・東海道は国道1号として車道と歩道に分離された道路に拡幅されているので、昔の街道の雰囲気はあまり感じられません。
現在では海側に造られた国道1号静清バイパスに交通が転換しているので、 旧・東海道は比較的静かな道になっていますが海は全く見えません。
興津宿前の海岸は、清水港拡張計画の一環としてコンテナ貨物の岸壁や人工海浜の整備が計画されているので、自然の海岸はいずれ姿を消す運命のようです。
[ 江尻 三保遠望 ]
帆を収めて江尻の港に並んで停泊している和船と三保の松原、さらに駿河湾に白い帆を張って浮かぶ多数の船が高い位置から描かれています。手前は江尻宿の家並みで埋め尽くされています。
遠くに見える固く角張った愛鷹山が海の穏やかさと対照的な様相を見せています。
[ 江尻 清水港(2021 09 18) ]
高い位置から清水港や三保の松原方面を一望できるところがないため、清水魚市場「河岸の市 いちば館」付近からの写真です。
広重が眺めた当時とは埋め立てによって地形が大きく変わっているうえ、工場・倉庫などの巨大な建造物が並び、往時の面影は穏やかな海面のほかは何も残っていません。
清水港の反対側にある三保の松原の海岸は、昔の地形をとどめ松原の保全もあり、富士山とともに世界遺産に登録されました。
[ 江尻 駅間通りの北側(2021 09 18)]
江尻宿の様子も大きく変わり、宿場町であったことを教えてくれる建物はほぼ皆無で、旧・東海道の江尻宿だったことを示す案内板があるだけです。
太平洋戦争時の空襲や艦砲射撃により廃墟と化した清水を復興させるため、426.4ヘクタールの戦災復興土地区画整理事業が始められましたが、1955年に区域・内容の再検討により100ヘクタールに縮小され、骨格となる道路は拡げられましたがその他は大きく変わることもなく1961年5月に完了を迎えました。
清水駅前の通りを挟み北が土地区画整理未実施、南が戦災復興土地区画整理の区域ですが、旧・東海道をたどって歩いていても違いは分かりません。
区画整理は事業面積の3%以上の公園を確保しなければならないのに、100ヘクタールの事業区域で1223㎡(0.12%)の公園しか造られていないので、ほとんど中断に近い状況だったのではないでしょうか。
[ 江尻 清水市街 防災建築街区(2021 09 19) ]
旧・東海道が通る銀座商店街は、1961(s36)年に施行された防災建築街区造成法による防災建築街区として造られた建築物が並んでいます。
防災建築街区は主に木造が多い市街地での延焼を食い止めることが目的とされています。
銀座商店街の建物は、3階建ての1階部分が道路境界から2.7mバックして歩道として使えるのが特徴で、また建物が連続しているので道路に電柱や電線がないためスッキリとしています。
水平方向に連続感があり、3階建ての低層なので圧迫感もない街並みですが、建築されたのは1968~1967年なのですでに半世紀を経ており、ところどころ建物が撤去されて駐車場や空き地になり、連続性が失われつつあり衰退感を増幅しているのが残念です。
防災の必要性はなくなったのでしょうか。
[ 府中 安倍川 ]
安倍川の流れの中を行きかう川越えの一行の様子が、丸子宿側の山々を背景に描かれています。
府中宿側からは蓮台に駕籠ごと乗っている女性、肩車されている女性、笠をかぶり蓮台に乗る女性など様々な渡り方が描かれています。
対岸からは荷を担ぐ馬、頭に荷を乗せ客を引いて渡る人足の様子が描かれています。
[ 府中 安倍川(2021 09 19) ]
安倍川の渡しがあった場所には、1923年7月に完成した長さ約500mの安倍川橋が架かっています。
安倍川橋の完成時は自動車も少ない状況でしたが、車のすれ違いができるよう幅約7mで造られ、約100年使われている長寿の橋でした。
それでも交通量が増えるにつれて橋にも手が加えられてきました。
1968年4月には下流側に歩道が付けられ歩行者も自転車も安心して渡れるようになり、トラス橋の構造もよく見えます。
さらに、西側の橋詰にある交差点の渋滞対策として右折帯を設けるため、西側2径間が1990年に架け替えられ拡幅されています。
建設時は全径間がトラス橋でしたが、西側2径間はトラス橋が撤去され1径間のアーチ橋になっています。
このほか東海地震に備え、橋脚の耐震補強などが行われています。
安倍川橋は約100年の間に交通量の増加、歩行者の安全確保、渋滞対策、地震対策などに対応するため、いろいろなところに手が加えられ生き長らえてきました。
[ 府中 安倍川橋手前の渋滞(2021 09 19) ]
安倍川橋は、駿府城近くの中町交差点から安倍川橋西交差点に至る都市計画道路「3.2.3本通線」の一部です。
安倍川橋部分の都市計画幅は9mなのでこれ以上車線数が増えることはありませんが、都市計画道路「3.2.3本通線」の陸上部分は市の中心部から計画幅の30m、4車線でほぼ完成していて、安倍川橋手前で2車線に絞られるので常に渋滞しています。
橋を拡げたとしても右岸側の丸子市街は2車線なので、どこかで渋滞することになります。
これからも安倍川橋は大切に使われていきそうです。
[ 府中 呉服町(2021 09 19) ]
静岡市の呉服町には、防災建築街区造成法の前身である耐火建築促進法による防火建築帯があります。
耐火建築物で3階建て以上または11m以上の高さが要求され、木造の多い市街地の延焼防止が目的でした。
沿道の建物が欠けて空き地になっているところはなく、一階部分は飲食や物販の店舗が並び、日曜部は多くの人通りがあります。
静岡県内の旧・東海道を歩いていると、防火建築帯や防災建築街区の建物が多く残っています。
木造建物が広がる市街地だった頃に、大火や空襲による火災で大きな被害を受けた経験を物語っているようです。
<参考資料>